何も信じるな!信じるものは救われない…苫米地英人「まずは、「信じる」ことをやめなさい」を要約してみた

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はじめに

まずは「信じること」をやめなさい。信じるものは救われない。

それは一体なぜか?

多くの人がこの「信じること」によって、自分の人生を自由に生きることができなくなっているからである。

もっと言えば「幸せになりたい」「救われたい」と思っている人ほど騙されてしまう。

今回は苫米地英人さんの「まずは信じることをやめなさい」を要約していきたいとおもいます。

最初に言っておくとこの本はめちゃくちゃ面白くて、私たちが普段無意識で行っている「何かを信じる」という価値観をがらりと変えてくれた1冊だったので、この記事を見て興味を持っていただけた方は是非、一度本書を手にとって読んでみることをお勧めいたします。

信じるものは救われない

本書ではなぜ信仰するのか?なぜ人は救いを求めるのか?といったことが深掘りして解説されております。

その理由は、多くの人がこの「信じること」によって自分の人生を自由に生きることができなくなっているからです。

もっと言えば、「幸せになりたい」とか「救われたい」と思っている人ほど、騙されてしまうからです。

苫米地さんはこれまで出されてきた本の中で「全知全能の神はいないことが数理哲学で証明された」と何度も書いていますが、それでも神を信じている人はいなくなりません。

信仰があること自体には何の問題もないのですが、そもそも信じることによって得られる救いや幸福感の正体を知らないことに問題があると言えます。

信じることによる弊害は何か?そもそも信仰というものがなぜ生まれるのか?なぜ人は何かを信じてすがりたいと思うのか?という『信仰心の嘘』が本書では徹底的に暴かれているのです。

「人が何かを信じるとき」そこには騙しが存在し、何かを盲信することほど危険なことはありません。

この世のありとあらゆる大きな権力または権力者やカリスマには、常に煩悩にまみれた思いが働いているからです。

つまりそこには意図や思惑があって、決して聖人君子ではないのです。

何かを信じた瞬間、あなたはコントロールされる側に回ってしまいます。

いわばリーダーとフォロワーの関係であり、フォロワーであることは『自分の自由な人生を歩めない』ことを意味しています。

リーダーが何かを命じれば、動かざるをえない状況に陥ります。リーダーが例え間違っていることに気付いても指摘できなくなりますし、リーダーの間違いにさえ気付けなくなるのです。

そしてこのことを洗脳と呼びます。つまり盲信は簡単に洗脳されてしまうのです。

何かを『盲信』していればそこに『盲点』が生まれ、他から見れば間違っていることも正しいことにしてしまうのです。

だから『自分がやっていることは正しいことだ』と信じていることは危険なのです。

何かを信じることで、あなたは常にフォロワーになってしまいます。フォロワーは決して自分の人生を歩むことはできません。

あなたの信じている物も人も世界も、常に正しいものではないからです。

あなたが「自分の人生を生きたい」とか「もっと自由に生きたい」と願うのならば、まずは信じることをやめましょう。

何かを盲信するのではなく、何かに救いを求めるのではなく、自分自身を信じるべきなのです。

本書を通してこの世界この時代に仕掛けられた様々な嘘や罠を見破り、本当に目指すべき生き方と幸福について学んでいきましょう。

さて苫米地さんは本書の中で、繰り返し「救われたいなどと願ってはならない」と主張されております。

多くの人は心の底で無意識のうちに救いを求めています。

「なんとかして今の状況から脱して救われたい」そのように日本人の大多数が心の底でじっと自らの幸福を願っていると思います。

バブル崩壊以降、すでに20年あまりにわたって国民は経済的な苦しみを味わい続けてきました。

しかし「ゆめゆめ救われたいなどと願ってはならない」と筆者は言います。

さてあなたは何かを信じているでしょうか?「自分は宗教も信じていないし、別にこれといって信じているものはないかなぁ」と答える人もいるでしょう。

しかし多くの人が無意識に信じているであろうものが1つあるのです。

それは国です。救われたいと願う人はおそらく国を頼る人だと思います。

「国が何とかしてくれる」「政府与党や官僚が手を打ってくれるはずだ」「そうでなければ何のための国なんだ」そう考えるのでしょう。

ところが歴史をちょっと振り返るだけで、国民が抱くこうした論理が一度も実現してこなかったことに気づくでしょう。

記憶に新しいところでは年金、公務員改革、財政再建、ありとあらゆる問題が国民に犠牲を強いる形で先送りされ、ますます大きな将来のツケに変わっています。

バブル崩壊以前の好景気の時代においても、同じことが行われてきました。国民は好景気に惑わされ、自分の懐の痛みを強く感じなかっただけの話です。

好景気であっても不況であっても、政府がやりたい放題であることに変わりはなく、国民は一度として政府になんとかしてもらったことなどありません。

国民はこの事実が理解できません。何故かといえばマスコミや教育により、巧みに国民の印象操作を行っているからです。

たとえば経済や社会の問題を伝えるニュース番組で「政府にはもっと頑張ってもらいたいですね」とか「政府も手を尽くしているんでしょう」などと、キャスターは必ず愚にもつかないコメントを差し挟みます。

『政府がちゃんと機能している』という印象を植え付け、その政府に関心を持ち期待するように仕向けるわけです。

ところが実際には政府は、国民が望むようには機能していません。

そうやって国民の期待は常に裏切られ、いつの間にか政府のやりたい放題がまかり通る世の中になり、国民もそれに大きな疑問を抱かないように慣らされてしまいます。

選挙にしてもこれは同じです。マスコミは「国民の意思を国政に反映させるために選挙に行こう」と呼びかけます。

ところが選挙で選ばれた政治家が、いざ国会では勝手なことをやり始めます。「選挙によって国民の負託を受けたのだから、何をやってもいい」と言わんばかりの態度です。

堪忍袋の緒が切れた国民は「次の選挙こそ」と選挙のたびにマスコミの言うことを信じて投票に行くわけですが、結果は変わりありません。

実はこうした図式は日本政府に限ったことではありません。アメリカ政府もヨーロッパの国々の政府もそれぞれの国民を騙しています。

だからアメリカでは食事さえできない人が4700万人もいますし、フランスでも失業者が溢れ返っています。

ユーロ安で一人好調なドイツでも、「政府は国民を欺いていない」と言う人はいません。

信じても救われないものの一例として『国』を解説しましたが、本書には国以外にも信じても救われないものが多く書かれています。

それは例えば『民主主義』『IMF』『世界銀行』などです。これらは私たちを甘い論理で魅了し結果はいつも裏切ります。

これらは私たちを洗脳しますが、私たちが陥りがちな洗脳の罠とは意外に単純です。

ただ単純ながらも、その仕掛けがあまりにも大きいため一度ハマると抜けだすのが大変なのです。

その技はあらゆるメディア、教育、他人の話、常識などによって、私たちを絡め取ろうとします。

そして最後は自分自身の考えが自分を洗脳し始め、その虜になってしまうわけです。

とにかく私たちは、こうした洗脳の罠から抜け出さなくてはならないのです。それが自分の人生を本当に選び取る第一歩となるからです。

  1. 信じる者は救わられない。なぜなら何かを信じた瞬間にあなたはコントロールされる側に回り、自分の人生を自由に生きることができなくなるため、信じる者ほど盲点が生まれ簡単に騙されてしまう。
  2. 多くの人が信じている国も、国が国民のために何かをしてくれたことなど一度もないことは歴史を振り返ればすぐに分かる。
  3. 国民の期待は常に裏切られ、いつのまにか政府のやりたい放題がまかり通る世の中になっているが、マスコミや教育が巧みに国民の印象操作をしているため国民はそれに気づかない。

信仰から自由になるためにどうすれば良いのか?

ここからは信仰や洗脳から自由になる方法をお伝えします。

一言で言うのならそれは『恐怖のアンカーを外すこと』です。

私たちが日常的に行う様々な無意識の選択と行動を、本当に自分のためのものに変えるための方法は、『理由をはっきりさせて、それを主体的に選び取る』しかありません。

要するに『本当にやりたいことだけをやる』ということです。

こう言うと必ず「本当にこれがやりたいことなのかどうか確信が持てません」という人が現れます。

本当にやりたいことをやっているとき、人間はハッピーな気持ちになります。

その意味で本当にやりたいことかどうかの判定は、頭でしようとしてもなかなか出来ません。やってみて「これだ!」と感じることが大切なのです。

「楽しい!ワクワクする!」ということが、その人にとって本当にやりたいことなのです。

皆さんは仕事でも日常生活でも、楽しいワクワクすることがあるでしょうか?

悲しいことに「そんなものはない」と答える人が多数を占めています。

私たちはまだ年端もいかない幼少の頃から、実は強烈な洗脳を施されています。

親や学校の先生に聞かされてきた『世間的な考え方や常識』がそうです。親や学校の先生も、彼らの親や先生から同じように洗脳されており、それが現代にまで繰り返され権力者に都合のいい選択と行動を個人に取らせる『社会』という形で完成しています。

私たちを無意識にコントロールしている洗脳の教義は、文化という社会の土台にまで埋め込まれています。

古今東西の文化は、まずは『宗教』、その次に宗教を利用した『政治権力』の「苦しめ。貧しくなれ。」という教えが色濃く反映されているのです。

自分が本当にやりたいことをやり、誰かにやらされていることを退けることは、口で言うほど簡単ではありません。

だからこそ本当は苦しいことをやり続けているのに、それさえも分からなくなってしまっている人が多くいるのです。

それを覆すために、自分の中に埋め込まれた『恐怖』というアンカーを取り除かなければなりません。

ところで洗脳技術の世界では、人間の恐怖を操ることが基本です。

言うまでもなく恐怖というのは人間にとって最も強い情動です。恐怖を感じることが出来なければ、昔の人々は外敵から身を守ることも危険な場所を避けることもできません。

何かのきっかけで脅威という強烈な情動が引っ張り出されることによって、人は一目散に逃げたり火事場の馬鹿力を出したりできるのです。

ありとあらゆる動物は、恐怖を感じることなく種を保存することはできません。

生き長らえるために私たちが最も必要とした情動が、洗脳に都合よく使われるという事実は思いのほか深刻です。

例えば上司や取引先から理不尽な要求をされたときに、私たちは「申し出を断ったらまずいかもなぁ」と考えると思います。

上司に逆らえば人事評価が下がるかもしれないし、評価が下がれば当然ボーナスの査定や昇給に影響するでしょう。

取引先に逆らえば取引がうまくいかなくなるかもしれないし、人間関係がギクシャクすれば営業成績だって下がってしまうでしょう。

そこで「申し出を断るのはやめよう」と考えたとしても、それはそれで正しい判断です。

恐怖には『いわれのある恐怖』と『いわれのない恐怖』があります。

『いわれのある恐怖』とは、個人が負うリスクのことです。リスクに対して恐怖を感じることは、何も悪いことではありません。

ところが相手の理不尽な要求をどう処理しようかと考えているときに、私たちはテレビの占いで「他人の意見に逆らわないことが吉だ」と耳にすれば、「今年の運勢は良くないと知り合いに言われたなぁ」と思い出したりします。

もちろんそんなことに強い恐怖は感じませんが、それは必ず私たちの選択に影響するのです。

どのように影響するかといえば、自分の選択ではなく他人の選択で物事を決めるようになります。

テレビや知り合いがそっと教えた「こうした方がいい」という価値判断によって、自らの選択と行動を制約されるわけです。

他人の選択に動かされる人は、失敗するとそれを他人の責任にしてしまいます。

当たり前のことですが選択をする際に誰かの指標に従ったとしても、本来それは自分の選択であり結果に対しても自己責任のはずです。

ところが他人の価値判断を受け入れることに慣れていると、「自分が悪かった」という意識さえ働きません。つまり『主体性』を失ってしまうのです。

ここまでを簡単にまとめると、信仰や洗脳から自由になる方法は『恐怖のアンカーを外すこと』です。

洗脳技術の世界では、人間の恐怖を操ることが基本だからです。恐怖を利用しで私たちは洗脳されているわけです。

アンカーとは『怒り』という意味で、埋め込まれた情動そのものを指します。洗脳から自由になるためには、恐怖のアンカーを外す必要があります。

恐怖のアンカーを外すと言うと何やら難しそうに感じますが、実はアンカーを取り除く方法の本質はすごいシンプルで、それはズバリ『慣れること』です。

筆者が主宰する苫米地ワークスでは、かつてこんな課題を出したことがあるそうです。

家の仏壇にある先祖の位牌をクラスに持参して、それを全員の目の前で叩き割るのです。

これを聞いて「なんてことするんだ!」と思う人いると思いますが、著者の意図は全員が例外なく囚われている『いわれのない恐怖』を取り除き、自由になるための一歩を踏み出させることにあります。

苫米地さんに言わせれば、位牌はただの板です。板を割ったところでバチが当たるわけではないし、死んだ親への敬意が疑われるはずもありません。

板を割るだけのことですから「そんなことをしても大丈夫なのか」という認識そのものが間違いです。

最初こそ強い抵抗感を持つかもしれませんが、一度割ってしまえば抵抗感は徐々に薄れていきます。

位牌を割っても死んだ親に対する自分の想いは変わらないし、位牌自体になんの意味もないということもわかってきます。

「両親が健在なら祖父母の位牌を割りましょう」と筆者は言います。仏壇に収められた位牌という位牌を、一つずつ割ってしまうのです。

そもそも仏教の教義に『位牌を作らなくてはならない』なんていう教えはありません。ですから釈迦が教えた本来の仏教に立ち返るという点でも、位牌に対するいわれのない恐怖を壊すことはむしろ賞賛されるべきだとです。

もう1つの筆者のすすめは『墓地で一夜を過ごすこと』です。ここで大切なのは怖いと思っていたけど、怖いことは何も起こらなかったという体験をすることです。

そのためシートや寝袋を持って、例えば東京の青山墓地で一夜を明かすのです。最初は怖いと感じるかもしれません。何かの気配がしたり、火の玉があたりに浮かんだりすることもあるでしょう。

しかしそうした現象はすべて幽霊とは関係ありません。幽霊などそもそも存在していないし、まして死者が蘇ることもありません。

何かの気配がしたならば夜行性の動物がうろついているだけのことですし、火の玉が出たとすればそれは何かの拍子に林が燃えているだけのことです。

2度3度経験していくと墓地で一夜を過ごす恐怖心は和らいでいきます。そうやって慣れることで恐怖のアンカーを取り除いていくわけです。

もっともこれを聞いている皆さんの中には、位牌を割ることも墓地で一夜を明かすことも自分には到底てきそうにないという人がいるかと思います。

あまりにも強い恐怖心や抵抗感があり、「どうしてもそれはできない」と思ってしまうわけです。

しかしそれは思い込みに過ぎません。

例えば医大に入学して初めて解剖に立ち会いあまりの生々しさに卒倒してしまった学生でも、1年経ち2年経つと何の抵抗もなくメスを入れることができるようになります。

私たちに埋め込まれている大抵の恐怖体験は、慣れることによって克服することができるのです。

ですから慣れることによって『恐怖と不安感』を取り除いていくことが重要になってくるのです。

それが洗脳から逃れ信仰から自由になり、自分で人生を歩むために必要なことです。

皆さんは今どんなことに恐怖を覚えているでしょうか?

位牌を割るとか墓地に泊まるという例は少しで過激かもしれませんが、皆さんが感じている恐怖も結局やってみると「たいしたことないじゃん」と思うことが重要です。

慣れることで今まで感じていたい言われのない『恐怖のアンカー』が外れるのです。

例えば今までは「会社に勤めていて会社から給料をもらうことが安定であり、会社を辞めて独立するなんて恐ろしい」と考えていた人でも、いざ独立すると次第に慣れていくものです。

そして恐怖というアンカーを克服した先には、本当の幸福があります。埋め込まれたいわれのない恐怖は、1つ取り除くことに成功すると「あれもそうだしこれもそうだ」といった具合に連鎖的に消えていきます。

まるで憑き物が落ちたように人間が変わったという表現が用いられるように、つるべ落としで取り除かれていくのです。

「人間はそう簡単には変われないよ」という考え方もありますが、きっかけさえ掴むことができれば必ずしも変われないわけではありません。

その憑き物が落ちた先にあるのは、本当の自由を実感する豊かで心地よい世界です。自分にできることもぐんと広がるでしょう。

それまでは「恥ずかしくてできない」とか「許せない」として、あたかも無価値のように捉えていたことが実は価値があり、確かな輝きを放っていることに気づくに違いありません。

筆者は「人間に幸福というものがあるとすれば、このような境地に達することだ」と言います。

もちろんその先にはもっと豊かな広がりがあり、最後には時間も生も死も超えた悟りの世界に行き着くはずです。

人間は生きているからこそ意味があり、死んでしまえば意味がありません。死を恐れる気持ちを理解できない訳ではありませんが、死んだ後のことを考えても意味はないのです。

生きているうちに「どうすればよりよく生きることができるか?」私たちはそれだけを考えて生きていくだけです。

だからこそ生きていることがより楽しく、ハッピーに感じられるようになるのです。

  • 信仰や洗脳から自由になる方法は、恐怖のアンカーを外すことである。
  • アンカーを取り除く方法の本質は『慣れること』である。位牌を割る、墓地で一晩過ごすなどして『慣れる』ことで恐怖のアンカーを取り除いていこう。
  • 埋め込まれた『いわれのない恐怖』は、1つ取り除くことに成功すると「あれもそうだしこれもそうだ」といった具合に連鎖的に消えていく。
  • 慣れることによって恐怖と不安感を取り除いていくことが、洗脳から逃れ信仰から自由になり自分で人生を歩むために必要なことである。

やりたいことをやる

「人間はやりたいことをやらなければいけないんだ」と苫米地さんは言います。

本当にやりたいことをやって得た結果は、すべてが素晴らしい結果です。

仮にそれが他人の評価を得られない結果だったとしても、自分がやりたいことをやって得た結果を前にして、本人はこの上ない満足を感じるに違いありません。

実は他人の価値を受け入れている大多数の日本中は、「本当にやりたいことをやって結果を得る」という経験を一度もしたことがありません。

自分が「やりたいことをやっている」と思っていても、それは誰かの価値観に従っているだけであり、本心からやりたいことをやっていないのです。

他人の言うことを聞き、他人の価値観を受け入れ、他人と同じ条件付きの幸福を追い、大多数はこれといった疑念さえ持たずにこの世から消えていきます。

だとすれば一体何のための人生でしょうか?自分が本当にやりたいことに気付くことは、人生の大問題です。

それを知るためにはやるべきことは、他人の価値観を矯正し刷り込む『テレビ』を見ないことです。

私たちの価値観はそのほとんどをテレビメディアが作っているからです。

もちろんテレビはその一方で私たちに「幸せになりたい」と、他人にすがることも教えています。

だからテレビを遮断するのです。テレビが見せる情報を遮断すれば、ほんの数カ月で他人の価値観に対する関心の度合いは、ものの見事に薄れていきます。

テレビが言う嘘の数々にも気付くことができるようになります。目の前で繰り広げられている現実だと思ってきたものが、全くの作り事だったことも徐々に理解できいるようになるでしょう。

そしてそのうちに必ず自分が本当にやりたいことは何なのかが、ハッキリとわかるようになるのです。

人間はやりたい事をやらなくてはいけません。逆にやりたくないことをやってはいけません。

このように述べると必ず「無責任だ!」と批判する人がでてきます。特に子どもたちにこのことを教えると「そんなことを言うと子供がやりたくないことをやらなくなる」と親御さんが心配します。

しかしやりたいことだけをやることは、極めて重要な選択の基準です。やりたいことだけができる人は自分に自信がみなぎり、その結果についても責任を持つことができます。

なぜなら人間は自分が強くやりたいと思うことは、どんなときもうまく成し遂げてしまうからです。

逆にやりたくないことをやっていれば、どんどん自信を失って結果にも責任を持てなくなり、他責思考に陥ってしまいます。

人間はやりたくないことは、いくらあがいてもうまく成し遂げることができないように作られております。

やりたくないことをやっている人のことを『奴隷』と呼びます。つまり奴隷とは、最後の最後まで『自分が本当にやりたいこと』を見出せない人なのです。

皆さんも自分が本当にやりたいことだけをやりましょう。そうすれば喜びは常に私たちの手の中にあるのです。

  1. 人間はやりたいことをやらなくてはいけない。他人の価値を受け入れている大多数の日本人は、本当にやりたいことをやって結果を得る経験を一度もしたことがない。
  2. 自分が本当にやりたいことに気付くことはとても大切であり、それを知るためには他人の価値観を矯正し刷り込む『テレビ』を捨てるべきだ。

終わりに

今回は『信じるものは救われない』『信仰から自由になるために』『やりたいことをやらなくてはいけない』と解説させてもらいました。

さて皆様良いかがだったでしょうか?人生について考えさせられるような内容でしたね。

苫米地さんの本はいつも人生の価値観を揺さぶってくれるので、私は大好きです。

今回の動画をきっかけにして、皆さんも自分は何かを盲信していないか、そのために不自由な人生を送ってはいないか、本当に自分がやりたいことをやるためにはどうすれば良いのかについて、少し思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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