この国では不平等がまかり通る!苫米地英人「日本を捨てよ」を要約してみた

スポンサーリンク
スポンサーリンク

はじめに

いきなりですが質問です。「あなたは自分の生まれたこの国が、今の日本が好きでしょうか?」

最近では「自分の国があまり好きではない」「好きとは言えない」と答える日本人が多いです。

この20年ほどの間、日本人は閉塞感を感じてます。

そんな私たちに筆者は言います。「それならば日本を捨てよう」と。

今回は苫米地英人さんの「日本を捨てよう」を要約していきたいと思います。

日本人が抱えている閉塞感の正体

本書のテーマはいわゆ『日本論』です。

なぜ日本人は政治家や官僚に文句を言うが、なぜデモを起こさないのか?なぜ海外へ脱出しようとしないのか?ここ数年若者たちの愛国心が強くなったように見えるのは気のせいか?

私たちが抱える厄介な問題の背景には、こうした根本的な疑問が実は横たわっているのです。

それらを一つ一つ解決しようとする姿勢が、目の前の閉塞感を打ち破って私たちが再び歩みを進めるための第一歩になるのです。

しかしその前に「なぜ今の日本で多くの日本人が閉塞感を抱え、思考停止してしまっているのか?」という問題を理解する必要があります。

調査によるとこの20年ほどの間、日本人は閉塞感を感じ続けていることが分かっております。

あなたもその一人ではないでしょうか?この20年ほどの間、日本人が感じ続けている閉塞感を考えると、あなたはどうすることもできない問題の数々を目の前にして次第に考える意欲を失いつつあるのではないでしょうか?

閉塞感とは、考えることさえ止めてしまいたくなるような『重たい無力感』のことを指します。

今や日本人は自分たちの社会の差し迫った問題について、「どうしたらいいか分からない。どうしようもない。」と考えることを放棄する癖を身につけてしまいました。その理由は2つあります。

1つ目の理由は『自分の問題解決能力に自信がないこと』です。20年も続いた経済停滞により、日本人はすっかり自信を失ってしまいました。

自分自身の能力に対する自己評価のことを心理学では『エフィカシー』と呼んでいます。わかりやすく言えば「自分はこれだけのことができる」という信念と言い換えてもいいでしょう。

問題に直面したときに、人は無意識のうちに自己と対話します。「この問題を自分は解決することができるだろう?」かそうやって自問自答するのです。

このときエフィカシーが低ければ、問題は手に負えないものだと感じてしまいます。日本人はまさに今そのような状態にあるのです。

結果として「どうせ自分が考えることなんて役に立たない」という諦めが日本人を縛り付けています。

2つ目の理由は、『本当に問題が難しくなっている』ことです

経済成長率が下がると『パイの取り合い』が起きるのは避けられません。実際に格差は拡大していますし、社会保障に関しても世代間の不平等が叫ばれております。

つまり同じ日本人の中での対立が覆い隠せなくなってきたのです。

こうしたシビアな利害の衝突をクリアにして、日本全体にとっての最適解を導き出すのは専門家でも難しいです。

まして素人である一般国民が、例えばTPP参加の是非について考えが及ばないのもある意味仕方がないことでしょう。

とはいえ私たちは「仕方がない」と言って終わらせる訳にはいかないのです。「どうしたらいいか分からない」と思考を放棄してしまっては、政治家と官僚そして声の大きな一部の人々に問題解決を委ねたままです。

彼らに社会の問題を丸投げすることがどれほど危険か、私たちはバブル崩壊以来、散々思い知らされてきたではありませんか。

なんとかしてこの閉塞感を打ち破り、国民一人一人が問題解決の主体となる必要があるのです。

そのために『まずは答えを出せるところから出してみよう』これが本書のメッセージです。

答えや解決策と呼ばれるものは現場における仮説に過ぎませんが、仮説さえあればそれにしたがって行動することができます。

また仮説を提示すれば批判も受け、それに反論しなければなりません。そのプロセスで次のより良い仮説も生まれてくるのです。

とにかく考えて自分なりの解答を出すという作業をするだけで、一歩前に進むことができるのです。

では私たちは「どうやって現状を変えて、どのように生きていくのが良いのか?」という事や、「今の日本人がなぜ幸福を感じられないか?」について考えていきましょう。

未だに世界随一の経済大国であり、一般的に言われるより好調な経済状態にありながら、「なぜ日本人はどことなく不幸なのか?」その原因となっている社会構造を分析していきましょう。

そしてさらに話を展開していき、『日本』『日本人』という枠組みから脱却する発想、すなわち『日本を捨てる技術』などについても解説していきましょう。

  1. 今の日本で多くの日本人が閉塞感を抱え思考停止してしまっている理由は2つある。
    • 自分の問題解決能力に自信がなく、自己効力感が低いこと。
    • 本当に問題解決が難しくなっていること。
  2. しかしこのままではいけない。だから何とかしてこの閉塞感を打ち破り、国民一人ひとりが問題解決の主体になる必要がある。そのために今の日本について考え、答えを出せるところから出してみよう。これからを生きる私たちには、とにかく考え自分なりの回答を出してみる作業が必要である。

日本人はなぜ幸福を感じられないのか?

国連の調査によると日本人の幸福度は156カ国中58位であり、幸福度はどんどん下がっているというデータがあります。

しかしよく考えてみるとこれは少し変なことであり、実は日本経済は好調なのです。

反論を顧みずに言えば、現在の日本経済は世界と比べて相対的に好調です。

他の国々を見渡すと、まずギリシャ危機以来EU経済が崩壊の瀬戸際にあることはよく知られています。アメリカもかなりまずい状態にあります。

一方で日本経済はどうでしょうか?確かに政府の借金は増えており、ついに1000兆円を超えました。

しかしギリシャとアメリカと同様に考えることはできません。それは借金が円建てだからです。

簡単に言えば、日本のお金を貸しているのは日本国民です。日本の銀行は国民の預貯金を使って国債を買っていて、お金の貸し借りは日本国民と日本政府の間で行われています。

政府の借金は確かに多いのですが、外国に対する日本の借金はほぼないと言っていいほどです。むしろアメリカに大量に貸し付けています。

このように考えると、現在の日本はそこまで悲観的なのでしょうか?

少子高齢化・人口減少による経済規模の縮小を心配する声もありますが、これもまた理解に苦しみます。

確かに日本の生産性が下がり、1人当たりのGDPの順位がどんどん下がっているのは問題でしょう。これは明らかに経済的な競争力の低下を意味してるからです。

しかし国全体の経済規模すなわちGDPが低下するのは、人口減少が伴っていれば問題ありません。国のサイズが小さくなるんですから、必要な税金が減るのも当然です。

したがってGDPが減り、税収が減ってもいいのです。

それでも「やはり税収が減るのはまずい」と言うのは、税金を使う立場にいる人間の勝手な都合です。

つまり税務省の官僚が人口減少を心配するのは仕方がありませんが、それ以外の人にとってはどうでもいいことです。

むしろ住宅事情の改善が期待できるいいニュースと捉えるべきなのです。

「とにかくGDPが減少するのは嫌だ」「 GDPランキングがこれ以上落ちるのは耐えられない」と考える人もいます。

理解に苦しみますが、そういう人には『GDPの規模=国の経済力』ではないと理解してもらいたいです。

現に電化製品をはじめとする製造業で日本のシェアを着々と奪っている韓国のGDPは、日本の1/5ほどです。

今や金融センターとして日本を大きく引き離しつつあるシンガポールに至っては、日本の1/25のGDPしかありません。

GDPだけ見れば、小国でも実は経済大国といえる国はいくらでもあるのです。たとえ国内マーケットが縮小しようとも、世界には売り込むべき巨大な市場が広がっています。

「円高によって割高になり不利だ」と感じるか、「信頼というプレミアで勝負できるか」と思い直せるかは、発想次第のはずです。

このように考えてみると、円高に対して日本人自身が極めて悲観的なのは不思議なことです。

「日本経済は深刻な状況にある。このままでは財政破綻も近い。」といった議論がまかり通っております。

若い世代は世界最高の環境を活かして起業にチャレンジするのではなく、むしろ大企業志望や公務員趣向を強めています。中高年は年金危機とやらに備えて貯蓄に余念がありません。

なぜ日本経済はそれなりに元気なのに、日本人には元気がないのでしょうか?

世界有数の豊かな国に生きながら、なぜ日本人は幸福そうに見えないのでしょうか?

様々な理由が考えられるでしょうが、筆者が日本人が幸福ではない最大の理由だと指摘するものは『公平なき日本では、既得権益者が優位に立ち続けること』です。

日本は公平ではありません。差別も不平等もまかり通っています。

差別の代表は裁判です。実は服装で判決が変わってしまうのが日本の裁判です。弁護士の間では服装によって判決が変わるのはもはや常識です。

例えば民事訴訟では、きちんとした服をしている当事者の主張が通りやすいそうです。

ちなみに刑事訴訟では、被告人にはわざとみすぼらしい服を着せるのが常識です。反省の態度を示すと共に同情を誘って、少しでを有利な判決を勝ち取るのが狙いです。

これを聞いてすごく驚くべきことだと思いませんか?

なぜなら服装によって裁判の判決が変わるのは、人を見た目で差別することだからです。

つまり『すべての国民は法のもとに平等である』と定めた憲法第14条に明らかに違反しているわけです。

そればかりではなく日本の司法制度では、こうした憲法違反の判断を助長するような制度が用意されています。それが刑事裁判における情状酌量です。

情状酌量とは被告人の性格・年齢・経歴・境遇・犯罪の動機・犯罪後の態度といった犯罪と関係のある一切の事情を考慮して、刑罰を軽くすることです。

これは刑法第66条に明文化されたれっきとした法制度でが、これこそまさに憲法違反としか思えません。

例えば同じように人を殺したとしても、年齢や境遇を考慮して刑に差を付けているのならば、差別としか言いようがありません。

ましてや被告人の性格や犯罪後の態度などという曖昧なものまで考慮に入れていいとすると、裁判官はいくらでも恣意的な差別をすることが可能になります。

極端にいえば「こいつの態度は気に入らないから実刑。」「可愛げのある被告人だから執行猶予にしてやろう。」といった差別が許されることになります。

「そんなバカな」と思われるかもしれませんが、実際こうした差別は存在しているようです。

わかりやすい例がライブドア事件でしょう。この事件で堀江貴文氏が行ったとされる粉飾決算の総額は、53億円ほどです。

それが事実だとしても、これまでの判例から見てとても実刑が相当とは言えません。1000億円単位の粉飾決算で裁判となった山一証券や日本債券信用銀行の事件でも、当事者には最終的に実刑判決は下されていません。

ではなぜ堀江氏は実刑判決を受けてしまったのか?それは彼が検察や裁判官に対して従順な態度を示さず徹底抗議の構えをとったため、裁判官の心証を損ねたからです。

さらに付け加えれば堀江氏の件に限らず、一般に日本の刑事訴訟では罪を否認したこと自体が「反省していない」というマイナスの情状と評価され、刑が重くなる傾向が見られます。

言うまでもなく被告人が刑事訴訟で自分の無罪を訴えるのは当然の権利です。それを行使したがために不利に扱われるなど、あってはならないことです。裁判の公正さが根底から疑われることになります。

そこでアメリカなどでは否認事件で被告者が不利にならないよう、『有罪か無罪かを判断する裁判』と『量刑を判断する裁判』の手続きを分ける工夫がなされています。

これならいくら否認してもそれが量刑に影響することはないため、被告側は安心して徹底抗戦できます。

今のところ日本ではこうした制度が導入される動きはありません。相変わらず裁判官は、否認した被告を反省していないと決めつけることが可能なのです。

弁護士たちもここに矛盾があることを半ば諦めて、「否認すると不利になるので、争わずに執行猶予を狙いましょう」などと被告人に勧める始末です。

このような不公平を許す情状酌量を認め、さらに制度化までしているのは先進国では日本だけです。

そしてこのような不平等や差別は裁判や司法だけではなく、企業でも普通にあることです。多くの人にとって就活に人生がかかっているのは言うまでもないでしょう。

面接の現場では、人を服装で判断するような情状酌量文化が企業社会においても当たり前となっています。

さらには服装だけではなく、顔などのルックスで判断されることも当然とされています。イケメンと美女は面接で受かりやすいことも指摘されています。

公平さのない日本社会では情状酌量がまかり通り、裁判所から企業まで様々な組織の問題解決能力が低いまま放置されているのです。

しかし日本社会に公平さがないことによる最大の弊害は、もっと別のところにあります。

それは『社会の構成員の可能性を奪ってしまうこと』です。

公平さは『神の前では誰も偉くない』という一心教的な思想に起源があります。

だからアメリカをはじめとするキリスト教圏では、苛烈な資本主義がのさばり巨大な経済格差が生まれる一方で「だからといって金持ちが権力者が偉いわけではない。本質的には人は皆平等だ。」との良識が維持されているわけです。

そうである以上、少なくとも建前上はすべての人に均等に自己実現の機会が与えられていなければ、平等だとは言えません。

実際アメリカでは誰もが支配者側に入り込む(あるいは支配者と戦う新興勢力として成功する)チャンスを与えられています。つまり個人の可能性を生かす社会です。

ところが日本社会は違います。公平さがないため、本質的には人は皆平等だというメンタリティーがありません。

金持ちや権力者は、本当に偉い人になってしまいます。こうなると同じ社会の構成員と言っても、人それぞれ価値が違うことになります。

価値が違う以上、対等に扱われる必要はないため、「平等にチャンスを与えられなくても構わない」との発想になるのです。

機会の平等がない社会はいったいどうなるでしょうか?

一言で言えば『封建社会』になります。日本では国会議員の子が国会議員になる確率は、一般人の子が国会議員になる確率の約3万倍です。

ちなみに自民党では世襲議員の比率は約50%、国会議員全体で約40%です。

これは明らかにおかしいですよね。最低でも親の選挙区には出られないといったルールは必要でしょう。

他にも医師は2世や3世が多い職業として知られています。またあまり知られていませんが、日本ではアカデミズムの世界も世襲の比率が非常に高いです。

法科大学院制度で多額の学費が必要になったことにより、今後は弁護士など法曹の世界も今よりも世襲化が進むでしょう。

さらに個人の才覚がモノを言うはずのビジネスの世界でさえ、似たようなことが起きているのです。

楽天の会長兼社長である三木谷氏は、父親は神戸大学名誉教授、母親は戦前にアメリカで学んだ帰国子女という名門の家柄で、大学を卒業すると名家出身者が多かった当時の日本興業銀行に入行しています。

同じよりIT企業を興した新興起業家でありながら、ごく普通の家庭で育ち東大中退で大企業経験もない堀江貴文氏は、徹底的に財界から嫌われ最終的には潰されてしまいました。

一方の三木谷氏は財界から嫌われることはなく、それは経団連を退会するようなあからさまな反抗したあとでも変わりません。

そこに生まれによる差別があると感じるのは不自然なことでしょうか?

このように機会の平等がない社会では、もともと有利な立場にいる人とそうでない人との間で自己実現の可能性に大きな開きがあるのです。

これが日本人が日本で幸福をあまり感じられない理由です。

  1. 日本人の幸福度は低い。しかし実は現在の日本経済は、相対的に世界でも好調である。また国全体の経済規模すなわちGDPが低下するのは、人口減少性が伴っていれば問題ない。その理由は、国のサイズが小さくなることで必要な税金も減るからである。
  2. 日本人が幸福でない最大の理由は、不公平な日本で既得権益者が優位に立ち続けるからだ。日本は公平ではなく、裁判や企業など至る所で差別も不平等もまかり通っている。その結果、個人の可能性がとことん追求できるアメリカなどに比べて、個人の可能性を生かすことができない社会構造になっている。

日本を捨てる

「私たちはどのように日本に向き合い、日本を愛すればいいのか?」について解説していきます。

筆者は「日本を愛するのなら、日本を突き放せ」と言います。

筆者は日本を良くするための様々な解決策を提示し、それが高く評価されているのですが、他の人が思いつかない発想ができるのは『抽象度の高い思考』をしているからです。

筆者は日本について考えを巡らせるとき、日本という枠組みを超えて考えています。つまり『抽象度の高い思考』をしているのです。

『抽象度が高い』とは、言い換えれば『具体性が低いこと』を指しています。つまり抽象度が高い人は、自分のこと目先のことといった具体的なことではなく、よりスケールの大きな対象(例えば世界、地球、宇宙)に思考が向かうようになります。

通常、日本が抱える問題について考えるとき、日本の具体的現象を考察の対象にしようとします。

優秀で真面目な人ほど日本の政治・経済・文化、その中でも戦後の政治、バブル期以降の経済、企業の文化と一層具体的な分析を進めていくことでしょう。

確かにこうしたアプローチも大切です。しかしあまりにも個別具体的な分析ばかりを続け枝葉の事実ばかりに注目してしまうと、その現実の枠内にあるものしか見えなくなってしまいます。

その結果、出てくる解決策は現実的ではあっても小手先のものになってしまいます。

一方、日本の諸問題を考えるとき、日本という枠よりも抽象度の高い思考を心がけるとどうなるでしょうか?

日本にとどまらずアジアや世界まで思考を広げ、単に比較するのではなく大きな視野で物事を捉えるようにする。さらにそもそも『国』とは何なのかを考える。日本文化ではなく、そもそも文化や言語とは何なのか、そしてそれが地域ごとにどう変化するのかを考えてみる。

抽象度の高い思考とは、例えて言うならより高い位置から全体を見渡すことであり、そうすると低い抽象度で思考している人たちの盲点も丸見えになります。

これが筆者が斬新かつ本質的な解決策を提言できる理由です。

ではなぜ日本の将来を真剣に案じている優秀な人ほど抽象度の低い思考にとどまり、結果として盲点にとらわれてしまうのでしょうか?

それは日本を愛しているからです。日本を愛しているから、日本に注目し、日本という枠の中で解決策を探してしまうのです。

だからこそ日本の将来を心配する人ほど、日本のためになる解決策にたどり着けないという皮肉な結果になってしまうのです。

「本気で日本を救いたい。より本質的で効果的な救国の策を考え出したい」と思うなら、まずは日本と適切な距離を取ることが必要です。あえて日本を突き放すべきなのであり、日本を飛び出さなければ、日本のことなど分からないのです。

それでも日本を突き放せない愛国者のため、筆者は「日本と距離をとることで、あなたは初めて日本と出会える」とアドバイスしています。

先ほどの抽象度の話を思い出してください。ある問題の全体像が見えるのは、1つ上の抽象度でものを見たときだけです。

その問題に没入していては、大事なものを見落とすことになるのです。日本の全体像を見るためには、1つ上の抽象度に上らなくてはいけません。

もっと簡単に言えば、いくら恋人愛しているからといってぴったり抱きついたままでは、その美しさを知ることはできません。少し離れたところから見るからこそ美人だとわかるのです。

日本は世界という全体を形作る1つの部品です。従って日本とは何かを本当に知りたければ、世界という全体を知らなければいけません。

世界という全体を認識した上でないと、その一部である日本の真の姿など知ることなどできやしないのです。

ですから「日本は美しくて良い国である。」とあなたが考えるのならば、そうした日本の長所をしっかりと認識するためにこそ、日本から少し離れてみましょう。

海外生活を経験した人が帰国して母国の良さに気付くのは、まさにこうしたメカニズムによるものです。

物理的に離れたこともさることながら、他国を知ることで抽象度が上がること、世界を見ることで全体像をつかむことができることが重要なのです。

あなたが日本を愛し日本を救いたいと本気で考えているなら、まずは日本を飛び出してみることです。

そうしてより高い抽象度から日本を見ましょう。世界という全体のなかで、日本という国が持つ真の価値を見極めましょう。

日本を救う道は、そのときに自然と見えてくるはずです。

  • 日本を正しく理解し、日本と向き合い、日本を愛するなら日本を突き放せ。
  • 日本を知りたければ、まずは日本と適切な距離をとるべきである。あえて日本を突き放し、日本を飛び出さなければ日本のことは分からない。日本は世界という全体を形作る1つの部品である。
  • 「日本とは何か」を本当に知りたければ、世界という全体を知らなければならない。世界という全体を認識した上でなくては、その一部である日本の真の姿を知ることをはできない

おわりに

今回は『日本人が抱えている閉塞感の正体』と『日本人はなぜ幸福を感じられないのか?」を解明し、『日本を捨てる』ことについて解説してきました。

さて皆様いかがでしたでしょうか?本日は『日本論』をテーマに熱く語ってきました。

あまり聞いたことのない話が多かったかもしれませんが、私たちが日本人として日本に生きる以上、大抵のことは日本という国によって規定されてしまいます。

そういった意味でも、自分の生きる日本について正しく理解し、自分の頭で日本の将来について考えることが重要になってくるわけです。

今回の記事が皆さんが日本について考えるきっかけとなれたら、とても嬉しく思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました